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体は「いちばん身近なおもちゃ」。体が教えてくれること

毎日付き合う私たちの‟体”は、実際どのように使われているのだろう? 吃音のある人や、目の見えない人の感じている身体世界を探究する研究者の伊藤亜紗さんが教えてくれた、「体から学べること」とは。

東京工業大学准教授 美学研究者
伊藤亜紗 (いとう・あさ)
1979 年、東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。元々生物学者を目指していたが、大学3 年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。研究のかたわらアート作品の制作にも携わる。

その体、どんなふうに使ってる?

こんにちは、伊藤亜紗です。私は研究者で、人の体について研究しています。「人の体について研究している」というと、お医者さんとか、あるいは運動生理学といった分野のことをイメージされるかもしれません。だけど、私の研究はそういったものとはちょっと違っています。

この世にひとつとして同じ体はありませんよね。性別、身長、体重、顔つき、肌の色、運動能力、視力、聴力、声…みんな少しずつ、あるいは大きく違っています。そのひとつしかない体を、誰もが、その人なりの仕方で使いこなして生きている。医学や生理学は、人体を一般化・匿名化して扱います。〇〇さんの、〇〇さんならではの体、ではないのです。しかも、「治すこと」や「より良くすること」といった明確な目的を持って、体と関わります。

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一方私の場合は、ひとりひとりの体の「違い」に目を向け、その人なりの使いこなし方を明らかにしたいと考えています。「治す」や「良くする」ではなく、その人がすでに行っている工夫や、習慣のようなものに注目します。最終的にはあらゆる体の違いが分かるようになったらいいな、と思っていますが、まずは体の違いが見えやすい人、具体的には障害のある人たちについて研究を進めてきました。例えば目の見えない人は、その視覚ぬきの体で、どんなふうに環境を認知しているのか。あるいは吃音があって言葉がスムーズに出ない人は、どんなふうに言葉と体の関係をとりもちながら、「しゃべる」という行為を遂行しているのか。

研究では、実際に当事者の方にインタビューをしながら、その人と一緒に、体との付き合い方を言葉にしていきます。「えっと、その体の使い方は…」。ふとしたエピソードに、驚きに満ちた発見が隠れていることもしばしば。健常者と呼ばれる人たちが、いかに体の限られた可能性しか使っていないか、日々実感します。

いちばん身近なおもちゃ

さて、こんなふうに私は、一つ一つの体の違いに注目しながら、その体ならではの使い方や、そのような体を抱えて生きるとはどのようなことなのか、を研究しています。でもこれって、研究者でなくても、誰もが普段から当たり前にやっていることなんですよね。例えば跳び箱が跳べないとします。跳ぼうとするとどうしても怖さが勝ってしまって、思い切り踏み切ることができない。どうやったら助走の勢いを消さずに跳び越すことができるんだろう……? 誰もがそんな、体の使い方をめぐる悩みに直面し、試行錯誤をした経験があると思います。

体が変われば悩みも変わるし、試行錯誤のポイントも変わります。目が見えなければ「まっすぐ歩く」ということがひとつのチャレンジになるし、下半身が動かなければ「腕の力だけで階段を下りる」ためにオリジナルの工夫が必要になる。年をとれば、食べ物を食べることだって冒険です。私の研究は、そんな誰もがやっている「体と付き合うための苦労や工夫」を、丁寧に言語化する作業だと言えます。言語化するのはなかなか容易ではありませんが、まあ、違いはそこだけ、と言うこともできます。

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つまりは、生きていくというのは、つきつめれば自分の体との付き合い方を研究することなんじゃないか。人は、体を通して学び続ける。体は、誰にとってもいちばん身近な研究対象です。

あるいは、いちばん身近なおもちゃと言ってもいい。赤ちゃんが、いちばん最初に見つけるおもちゃは、まぎれもなく自分の体です。まだ生後2~3ヶ月のうちから、赤ちゃんはやたら自分の手を見つめ始めます。「ハンドリガード」と呼ばれる行動で、片手を見つめたり、両手を見つめたり、そのふたつを合わせてみたり。赤ちゃんは、どんなおもちゃよりも早く、まず「手」で遊んでいます。「 ハイハイ」や「たっち」をするようになれば、体をめぐる探究はいっそう高度になっていきます。ハイハイのスタイルひとつとったって、一様ではありません。定番の四つん這いスタイルの子もいれば、片ひざを立てて忍者のように進む子、両脚を投げ出してすべるように高速移動する子、本当にさまざまです。それはさながら、赤ちゃんひとりひとりの「どうやったらこの体を早く前に進められるか」の研究成果を見ているようです。

こんなふうに、体は、子どもにとっても大人にとっても最も身近な研究対象です。そうやって当たり前に研究していることを、言葉を使ってさらに深めていく。場合によっては、人とくらべてみる。そうすると、意外な発見に出合うことが多々あります。

本コラムのテーマは「あたらしい学びのかたち」です。体について考えることは、実はふるくてあたらしい学びの入り口なのではないかと思っています。

「思い通りにならないこと」と「うまくやる知恵」

体が教えてくれることとは何なのか。ひとことで言うなら、それは「思い通りにならないこと」と「うまくやる知恵」です。これが、体を研究対象としている私の実感です。

もちろん体がなくては、私たちはいかなる思いも実現できません。でもその一方で、体は私たちの思いを完全に叶えてくれるわけではない。跳び箱を跳びたいと思っただけで跳べるわけではないし、こんな顔になりたいと願ったら翌日そうなっている、というわけにはいきません。体とは、私のものでありながら、完全には私の思い通りにはならないものです。おそらく、自分の体に100% 満足している人というのはいないのではないでしょうか。顔かたちや能力についてもそうでしょうし、願ってもいないのに病気になったかと思えば、否応なく老いを迎え、最後には生きたいと望んでも死しか選ぶことはできない。体について考えるとは、究極的には、この思い通りにならなさについて考えるということに他なりません。

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学びというと、一般にはできることを増やすことだと思われています。学校教育の中でほぼ唯一、体について学ぶ科目である「体育」が、まさにそうです。能力を伸ばすことは、それはそれでもちろん重要なことです。でも同時に、生きていく上では思い通りにならないこともたくさんある。その事実に対する向き合い方を子どもに教えることも、重要なことではないかと思っています。

イギリスの詩人ジョン・キーツは、解決できない状況に耐える力のことを「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼びました。まさに負の力。通常の教育が重視するポジティブ・ケイパビリティだけでは、思い通りにならないことにぶち当たった時、すぐに折れてしまったり、爆発してしまったりしかねません。同時にネガティブな能力を身につけることで、初めて人はしなやかに生きることができます。実際、障害のある人と関わっていると、思い通りにならないことに対する彼らの潔さに驚くことがあります。目が見えなくて自動販売機のジュースを選べない時、適当にボタンを押して「運試し」代わりにしている人。目も見えず耳も聞こえないけれど、カバンに伝わる振動で花火を感じている人。「思い通りにならない」の先に、「なるようになれ」の強さや、「なんとかなるさ」の明るさを感じることさえあります。

自分を超えていくもの

「なるようになれ」の強さや、「なんとかなるさ」の明るさ。確かに、「思い通りにならない」という状態は、「思い通りにコントロールしよう」という意志を前提にしているわけですから、それを手放すことによって別の付き合い方が見えてくる場合があります。思い出すのは、子どもの頃によくやっていた一人遊びです。一人遊びといっても単純な遊びで、全速力で近所の公園の階段を駆け下りるだけ。その時、一段抜かしをして、より勢いがつくようにします。そうすると、最初は「階段を下りている」という感覚だった運動が、「足が勝手に動いている」になり、最後は「もう止められない」というスリルに突入していくのです。

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元々は自分の意志にもとづく能動的な運動だったはずのものが、勢いづくにつれて私のコントロールを外れ、まるで階段が足を動かしているかのような自動運動の状態になる。体が自分を追い越していくようなその感覚は、ちょっと怖くもあったけれど、同時に大きな快楽を与えてくれる経験でした。そんな体を手放す快楽に没入する一方で、当時の私には吃音がありました。しゃべろうとすると「いいいいいのち」のように同じ音を繰り返してしまったり、急に音が出なくなったりするのです。吃音における思い通りにならなさに苦しみながら、他方では階段を全速力で下って自分の体を暴走させて楽しむ。体という自分を超えていくものの輪郭を、何とかとらえようとする私なりの研究だったように思います。

他者の力を借りてみる

階段下りは孤独な一人遊びですが、体をコントロールしようという意志を手放すことが、他者を招き入れることにつながることもあります。障害のある人の場合であれば、それは「介助」ということになりますが、そうでなくても、同様の体験をすることができます。

例えばブラインドラン。アイマスクをつけて、伴走者と1本のロープを一緒に持ちながら走るのですが、実際に体験してみると、いかに普段の自分が体をコントロールしようという意志でガチガチになっていたかを実感します。アイマスクをつけた最初は、自分で段差や障害を知覚しようとがんばりすぎてしまうので、恐怖心が勝ります。でもあるタイミングで伴走者とのあいだに信頼関係が生まれると、「この人に自分を預けよう」という大らかな気持ちが生まれる。自分を手放して、伴走者に任せて走る感覚は、ひとりで走るのとはまったく違う、思いがけない開放感をもたらします。

この「他者の力を借りて実現する」というのも、通常の教育ではあまり重視されないことかもしれません。何しろテストでこれをやったらカンニングになってしまいますから。もちろん、個人の能力を高める学びも重要です。でも、私たちがそもそも思い通りにならない要素を抱えている以上、他者の力を借りるスキルもまた重要です。体を通して、自分の身の預け方も学ぶことができます。

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体を授かる

実は2018年7月に、初めての絵本を出版しました。タイトルは『みえるとかみえないとか』。3年前に、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という新書を出したのですが、これをベースにして、ヨシタケシンスケさんが絵とストーリーを考えてくださいました。

見えないことがテーマになってはいますが、視覚障害者は一瞬しか出てきません。舞台は何と宇宙。宇宙飛行士が、とある星で目が3つある人に出会い、「うしろが見えないなんてかわいそう!」と障害者扱いされるところから、さまざまな違いに思いを馳せていくというストーリーです。デリケートな話題を絵にしていくヨシタケさんの力には脱帽するばかりだったのですが、中でも感動したのが、神様と思われるおじいさんが、生まれてくる子どもひとりひとりに、体を授けるシーンでした。舞台は工場のようなところで、1列に並んだ子どもたちが、順番に自分の乗り物=体を与えられていきます。まさに「体の思い通りにならなさ」を描いたシーンです。

三輪車をあてがわれる子もいれば、一輪車の子もいる。さっそくタイヤが取れてしまった子もいれば、陸上なのに船型の車に乗っている子もいる。にぎやかな絵にはこんな言葉が添えられています。

「からだの とくちょうや みためは のりもののようなものだ。『その のりものが とくいなこと』は かならず あるけれど、のりものの しゅるいを じぶんで えらぶことは できない。」

体を選べない、というのはかなり重い事実です。思い通りにならなさの中でも究極のものでしょう。でもだからこそ、優劣ではなく、それぞれの乗り物ならではの苦労や乗り心地をお互いに教え合う、という方向にストーリーは進んでいく。「おなじところを さがしながら ちがうところを おたがいに おもしろがれば いいんだね。」そう言って宇宙飛行士はその星をあとにします。私たちが生まれた時からそこにあって、死ぬまで付き合わねばならず、自分を超え出る可能性も、思い通りにならなさも、まるごと私につきつけてくる体。体という身近な存在について考えることは、個人の能力を最大化することに焦点をあててきた従来の教育の、ちょうどネガの部分に気づかせてくれます。

がんばることは大切だけど、どうしたってうまくいかないことや、誰かの力を借りなければできないこともある。単なる負けではない仕方で、ままならない自分を許す懐の深さを、体とともに学びたいと思います。

伊藤亜紗さんの著書

『みえるとかみえないとか』(アリス館/そうだん:伊藤亜紗)
人気の絵本作家ヨシタケシンスケによる絵本。 さまざまな身体特徴を持つ宇宙人の登場によって、「障害」が身体の個体差と捉えられる視座が豊富に紡がれている。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)
伊藤さんが出会ってきた数々の視覚障害者との対話を通して、彼らの持つ感覚や空間認識、運動やコミュニケーションの方法、または生き抜くための独自の戦略などをユーモラスに分析していく。

『どもる体』(医学書院)
思わず“どもってしまう” 吃音という身体現象の謎を、症状ではなく経験と捉え、医学または心理学的側面とは異なる視点でアプローチした一冊。体との多様な付き合い方を教えてくれる。


Text: ASA ITO
Edit: Arina Tsukada
Illustration: Hisashi Okawa

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