見出し画像

野生のクリエイティビティを育む―未来を生きる子どもたちに必要な「学び」とは?

未来を生きる子どもたちにとって、本当に必要な「学び」とはどんなものなのでしょうか?
今回は、新しい学校のかたちや、子どもたちのクリエイティビティを育む教育について、ミュージアム・エデュケーター会田大也さんにお話を伺います。

「新たな学校」が生まれている

突然ですが、近年、新しいタイプの学校や教育施設が増えてきていることをみなさんご存知でしょうか。そのひとつに、ビジネスの世界などでグローバルに活躍してきた人たちが創り出している新しいタイプの学校があります。象徴的な例としては、2003 年リクルートに勤務していた藤原和博さんが東京都で初めての民間人校長として杉並区立和田中学校校長に就任したこと。藤原さんは校内に「よのなか科」を創設し、そのユニークな取り組みを次々と自身の著書にまとめて出版しました。以来、なかなか外部の思考を受け入れにくかった学校教育の中に、新しい風が吹き込み始めたのです。

画像1

そのほかにも、多くの国からの留学生と日本人がともに学ぶ全寮制の学校「ISAK(International School of Asia, Karuizawa)」、さまざまな実地研修を通じて通常の科目学習を教えていく「きのくに子どもの村学園」、質の高い教養の授業がすべて英語で行われる「国際教養大学」、園舎を持たず、森での遊びを通じて子どもを見守り育てていく「森のようちえんまるたんぼう」などがあります。私がプログラム内容を監修している、伊勢丹発の教育コンテンツ「cocoiku」では、幼児から小学生を対象に「メディアセンスを育む」というコンセプトで展開しています。百貨店という環境を活かして、託児機能との融合や品質の高い商品をそろえる各ブランドと協働するプログラム開発など、これまでにない新たな教育のかたちを提供しています。

また世界に目を向けると、IT 起業家がベンチャーキャピタルから多額の出資を受けて立ち上げたアメリカのミネルヴァ大学は、キャンパスや校舎を持たず、1 学年150 名ほどの学生が共同生活をしながら世界の7都市を1 ヵ月ずつめぐり、各都市のIT 企業などの法人パートナーのもとで学んでいく学校です。同じくアメリカで世界中を旅しながら学ぶ「THINKGlobal School」はその高校版。3 年間で12 ヵ国、3 ヵ月ごとに生活する国が変わっていきます。また、インドネシアのバリ島にある「GreenSchool」は、3 歳から高校生までの子どもたちを受け入れ、持続可能性やエコロジーなどをコンセプトに、豊かな自然の中で農作物を育てたりしながら、サスティナブルな感覚を身に付けた次世代のリーダーを育成することを目指しています。

プロジェクトを通して、夢中になる経験をつくる

こうした新しいタイプの教育施設に特徴的なのが「プロジェクト型学習」です。これは科目ごとに学習を進める従来のカリキュラムに対して、大きな一つの目標を設定し、それを実現するために必要な知識を実地で学んでいくアプローチです。例えば、「秘密基地をつくる」というミッションがあったとき、チーム内での役割分担から設計、実際の工事施工に至るまでのプロセスを通して、組織づくり、情報の集め方、設計に必要な計算、図面製作といったトピックが、従来の科目である数学、情報、物理、図画工作、倫理などと対応しています。こちらのほうが、「いつか役に立つ」と言われて勉強するよりも、学習の目的や理由を子どもたちが納得した上で取り組めそうです。

画像2

子どもたち自身が、自分たちの学び場や環境づくりに関わること。その究極の事例の一つに建築家ペーター・ヒューブナーが設計したゲルゼンキルヘン・ビスマルクの総合学校があります。この学校の建物は計画から完成までになんと11 年もの歳月がかかったのですが、その理由は学校の新5年生の生徒がクラスルーム棟を授業の一環で設計するプロジェクトを行っていたためでした。そこでは、設計事務所のスタッフが生徒と先生のあいだに入り、まず計測した子どもたちの身体サイズをスケールダウンした粘土人形を作るところからスタートしました。建築家が描いた試作図面に合わせて子どもたちは素材をカットし、組み立て、試作を繰り返しながら模型を作製していきます。また、木造校舎の骨格を作る課程では、子どもたちは構造計算の基礎や素材の組み合わせによる強度の違いなどを学び、実際に建物の施工のお手伝いにも携わります。竣工までに1 年間をかけるこのプロジェクトは6 年間継続し、最終的に子どもたちと作った6棟のクラスルーム棟が竣工しました。

こうしたプロジェクト型学習では、子どもたちはみんな一斉に夢中になって何かに取り組み始めます。そこで大切なことは、この「夢中になった経験」を大人になっても記憶していること。誰しも夢中で仕事をしている時は、誰にも真似できないパフォーマンスを発揮していることがよくあります。一人ひとりその対象は異なりますが、なるべく多くの人たちが自分の夢中になれることを分担し合っていくほうが、いい未来をつくれるんじゃないかと思うんです。

遊びながら「自治」や「公共性」を身につけていく

私が関わった「コロガル公園」のプロジェクトを紹介しましょう。これは山口市にある山口情報芸術センター(YCAM)で、2012年に誕生した仮設の公園プロジェクトで、2016年までに5 種類ものシリーズが生まれています。斜めの床面と、用途の決まっていないメディア遊具が随所に設置されたこの空間は、子どもたち自身が「自治」や「公共性」を遊びながら身につけられる場所として育っていきました。

野生のクリエイティビティ2回

© Yamaguchi Center for Arts and Media [YCAM]

「公共性」なんていう抽象的な知恵は、なかなか「教える」ことが難しいのですが、コロガル公園でのはじめのきっかけは、子どもたちが大人のスタッフのお手伝いをするようになったというささいなこと。そこから「こどもスタッフ」という特別な役割が誕生し、大人が子どもたちのやりたいことをヒアリングしたり、サポートしたりした結果、次第に彼ら自身がワークショップやお祭りイベントを企画し、運営するようになったのです。

そうした中で、「公園」というパブリックな場所が、「この場を使わせてもらっている」という顧客意識よりも「自分たちが使いこなしている」というオーナーシップの意識へと醸成されていったように思います。コロガル公園では、「公園を大切にしましょう」とか「お友達と仲良くしましょう」といったことをスタッフが口うるさく言うことはありませんでした。その分、居心地よく過ごすために必要なことを、子どもたちが自ら探っていったのです。その結果として、自然と自治や公共性が重んじられるようになりました。ことさら「プロジェクト型学習」を謳っていたわけではありませんが、結果的に子どもたちが非常に高度な社会性を遊びの中で自然と身につけていった。その様子は制作者の立場からすると感動的ですらありました。

野生のクリエイティビティを育む

私は、子どもたちの活動を観察しながら、クリエイティビティというものはいったいどこからやって来るんだろうと日々考えています。今日、「21 世紀型スキル」や「非認知スキル」と呼ばれ、いわゆる従来の学習到達度テストでは測ることができない能力の必要性が叫ばれていますが、その中でも「クリエイティビティ」は最も重要な要素とされています。

スキルを一方的に与えようとする従来の教育モデルは、100 年以上も前から見直そうとする動きがありましたが、まだ日本の学校では創造力を育む環境が充分にあると言えない状況です。しかし、学校にすべての要望を解決してもらおうとする必要は必ずしもないのかもしれません。子どもたちは学校以外の場所でも、さまざまな生活シーンの中で、色々な価値観やそれらの対立、矛盾に巻き込まれていきます。その中で、自分なりの判断や応用力を培っていくことができるはずです。異なる文脈や文化を知ることで新しい価値を発見することはできますし、このことに自ら気づき、社会的に実装していく能力を、私は「野生のクリエイティビティ」と呼んでいます。

画像1

一つの事例を挙げてみます。世界的に有名な理系大学の名門、マサチューセッツ工科大学(MIT)には、「(ほぼ)何でも作る方法/ How to Make (Almost) Anything」という授業カリキュラムがあります。その思想に端を発し、3D プリンタやレーザープリンタなどを設置し、誰でもデジタルファブリケーションを行える市民のものづくり拠点「FabLab(ファブラボ)」が生まれました。MIT のキャンパスとインドからスタートした「FabLab」は、いま世界中にその輪を拡げています。中でも、インドネシアの古都、ジョグジャカルタにあるFabLab「HONFabLab」は私が訪れたFabLab の中でも非常に刺激的な場所の一つでした。「HONFabLab」は、地域の学生やものづくり好きの人々がたむろする、大学の部室のようなリラックスした雰囲気の空間。そこではオシャレな椅子や3Dプリンティングの模型を作るプロジェクトに交じって、50ドルで義足を作ったり、地域の農業を考えるために蒸留酒を造ったりするなど、社会的な課題にコミットするプロジェクトが行われていたのです。創立者のVenzhaChrist は「どれも面白いからいいだろ?」と笑って案内してくれました。そのとき、「特別なことは何もない。椅子も義足も、みんなが必要なものを作りだすだけ」という彼らのものづくりへの姿勢に心を打たれたんです。「趣味のためのものづくり」といった側面が強い日本とは異なり、彼らの活動の中には社会教育的な意義が自然と内包されているように感じました。

自分が関わる教育の仕事の中でも、大きな災害が起きたときの対処法を、どのように教育すべきかという課題があります。そこで考えているのが、いわゆる従来型の避難訓練だけでなく、「災害発生後72 時間を生き抜くためのサバイバル術」を、遊びの中で身につけていく試みです。例えば寒さから身を守る方法や、空き缶でロウソクを作る方法などは、キャンプ活動の一環のように取り込んでいけば、災害時の心構えやリアルな対応行動を楽しみながら伝えることができるでしょう。それらはアートやデザインといったいわゆる創造活動とは見た目が異なりますが、「未知のものに向き合う姿勢や知恵」といった点において、人が本来持っている野生のクリエイティビティの一つとして捉えることができると思います。

子どもの目を借りて、世界を見る

現代を生きる私たちはかつてないほどの環境の変化に晒されていますが、それは子どもにとっても同じこと。今まで以上に、多様な前提や常識が入り乱れる世界に暮らしているのです。そうしたとき、私自身も子育て中の親の一人ですが、自分が育った時の環境を前提に子育てをしてしまうと、どこかで不適切な対応や勘違いが起きることに気がつきます。自分の思い込みや決めつけをなるべく排して、まずは子どもの目の前の様子や起きている現象を素直にしっかり観察することが大切だと思っています。

画像1

そうして子どものことを見守る際に、私は「2 種類の目」を持って観察するように意識しています。一つは「大人の目」。子どもに危険が及ばないか、大人の常識に照らし合わせながら、どんな対応が適切かを考える目です。もう一つは、子ども自身が見ている世界をイメージする「子どもの目」。子ども目線になって、彼らがどんな風景を見ているのか、どんな心境でいるのかを、彼らの中に潜り込んで見るような視点です。「内側からの目線(Inner View)」でしょうか。例えば3歳ぐらいの子どもには、何でも嫌がる「イヤイヤ期」が訪れます。「大人の目」から見れば、あの手この手を繰り出しても「イヤイヤ」が繰り返され、ほとほと困ってしまう状況です。その一方で「子どもの目」を借りて見ると、それまで自分は何でも周囲のことを受け入れるしかなかったのに「イヤ!」と言うだけで、周りの大人は今までと異なる対応を返してくれることに気が付いた瞬間だと見えるかもしれません。言い換えれば、「自分は世界を拒否できる」ということを確かめている。それは、子どもが成長する中で経験するべきステップの一つです。もし子どもがイヤイヤ期になったら、「この子は何かを嫌がっているのではなく、『イヤ』と言えることを確かめてみているのかも」と考えるだけで、その後の向き合い方が変わるかもしれません。

こうした子どもとの向き合い方、すなわち相手の目線で世界を見る方法そのものは、子どもに対してだけでなく、他文化とより一層交流が深まっていくこれからの多様な社会において、大人にも必要な視点だと言えるでしょう。相手の視点に飛び込んで物事を考える思考は、野生のクリエイティビティと根っこの部分でつながっていると感じています。常に新しいモノの見方に触れ、そのことを楽しむ子どもたちのように、私たち自身も未知のものに触れる喜びを楽しみ、子どもと一緒に成長していけると良いなと思うのです。

ミュージアム・エデュケーター
会田大也 (あいだ・だいや)
1976 年生まれ。ミュージアム・エデュケーター。東京造形大学、IAMAS(情報科学芸術大学院大学)卒業。2003 年より、山口情報芸術センター[YCAM]に勤務し、教育普及担当を務める。2009 年よりMaemachiArt Center(MAC)に入居& 運営。現在、東京大学ソーシャルICTグローバル・クリエイティブリーダー育成プログラム特任助教。

Text: Daiya Aida
Edit: Arina Tsukada
Illustration: Hisashi Okawa

雑誌『MilK JAPON』Spring/Summer 2017 No.34 より抜粋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?